神さまのいない日曜日#3「死の谷 III」
誰であれ、魂のツボ、みたいなものは在りましょう。
私にとってのこの「神さまのいない日曜日」第三話が、まさしくそれでした。
芯に刺さって刺さって、甘くて痛くて、心地よくて苦しくて、なんだか久しぶりにアニメでべろべろに泣けてしまったと。
溜まったアニメのまとめ視聴をしていて、おそらくこれの後に他の作品を見るのはしんどいだろうと予想して最後(寝る前)に回したのですが、感情が昂りすぎて、逆に眠れなくなって困りました。
ハンプニーハンバート。不老不死の存在となってしまった彼が探していたもの。心の奥底に沈めていた、真の願い。
アイ。淋しい境遇の彼女が手に入れたもの。手に入れると同時に、手に入れたがゆえに、喪ってしまう。その皮肉。
ハンプニーハンバートとハナ。墓守と人の恋。死を与える者と、死を望みつつ不死の身で彷徨うものの恋。
アルファとアイ。天国のような村、そこに住む死者という矛盾。それでも、アイが注がれていた愛情は本物だった。
どれをとっても私の琴線、涙腺、そういった感情の弱いところに直撃するものなのに、相乗効果で、凄まじいことになってしまったという。
けれど、何よりも決定的だったのは、ハンプニーハンバートの願い……「幸せに」死にたい、という言葉でした。
娘と友に看取られ、少しの心残りを、未練を残して、旅立つこと。
ささやかで、ちっぽけで、けれど限りなく贅沢な願い。それが叶えられた瞬間。
とどめに、親子として、最後に過ごした一日。夢のように美しい一日。そして流れ出すピアノのイントロからのエンディングへの流れ。
埋葬。
いわゆる「泣かせ」の押しつけがましさが(少なくとも私にとっては)感じられないのは、世界設定の特異さ、騙し絵のような神の願いの構造、誤解とすれ違いの発生と解消の過程……といった物語のからくりが、ぴったりと収まっているからだろうか。
私は「物語における死」が好物ですが(悪趣味なのは承知しております)、反面、「物語のために人が死ぬ」ことが嫌いです。
主人公の決意を促すために、人間が死ぬ。
駒として双六を進めるために、人間が死ぬ。
そこに、イベントを繰り出して物語を先へ進めようとする作者の、してやったりな顔が透けて見えた瞬間、気持ちは完全に醒めてしまう。
けれどこの作品は、「死のために物語があった」。
それは、この時点では、ハンプニーハンバートのためのものですが。
いつか他の人物……アイについても、「死のための物語」として語られるのだろうか。
戦々恐々としつつ。甘美さに震えつつ。
見守っていきます。
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神さまのいない日曜日 墓守の少女 (角川文庫)
見終わって、若干説明の足らない部分があるように思い、原作本を買ってきました。
読んでみて、確かにだいぶ端折った部分もあるのですが、ぼんやりと分かったつもりになっていた箇所は、だいたい思った通りで、大事なことはきちんと伝わっていたんだな、と。
そして、情感の出し方について、アニメの表現がとても優れていたことを再確認しました。うん。今後も、アニメを先行して見ていこう。
ちなみに富士見ファンタジア文庫版ではなく角川文庫版を選んだ訳は、作者のブログによると、大幅な加筆・訂正が入っているとのことなので。内容は変えずに、文章表現をブラッシュアップした、と。実際、最近ラノベの文章が苦手になってしまっている私ですが、だいぶすらすらと読むことが出来ました。