映画『宇宙戦艦ヤマト2199 第七章 そして艦は行く』
今回はしょっぱなからネタバレ上等、思い入れとか思い込みとかいろいろ垂れ流しになります。ひとつのまとまった文章としての出来はよろしくないです。それはまあいつものことですが。
諸々、ご注意下さい。
最終章。映画館にて鑑賞、マラソン完走しました。
BDの購入申し込み用紙もゲット。忘れずに申し込まねば……。
今はただ、終わってしまったことが淋しいです。
TV放映版、またBD版で若干の補完はあるにせよ、完結に変わりは無く。
もっともっと長い間、旅していたかったなぁ。ヤマトと一緒に。
……えっ続編?スターシャのあの仕草は伏線?
ちょっとにおわせて、想像の余地(旧作ファンにはニヤリポイント)を作ってくれただけ、と思います……思いまs……うーん。
旧作のサーシャはあまりにもあまりな結末だったので、救いを与えてくれたら嬉しいな、とは思いますけれど。
初めて見た時、事前に「新たなる旅立ち」での姿を知っていただけに「ねーわー。そりゃねーわー」と幼心にも思ったもんです。ねーわー。今考えてもあれはねーわー。
閑話休題。
上映終了後、自然と拍手が湧き起こっていました。多くの映画館で、同じことがあったそうで。初日の初回上映とはいえ、けっこう珍しいですね。
拍手したくなる。お疲れさま、ありがとう。と、言いたくなる。そんな作品でした。
最終章の特徴というか、強く印象に乗ったのは、旧作のファンを力技で納得させる、辻褄合わせの数々であります。
あまりにも理屈を合わせることにこだわっていて、そこまで拾うのかよ!そこをそう拾うのかよ!という部分も多々ありましたが、それもまたご愛嬌……むしろ「愛」を感じました。
デスラーの急襲とか。
身を挺して死亡する雪とか。
沖田の死と引き換えのように雪が蘇生するとか。
大事なポイントや名台詞を(若干形を変えながら)すべてを再現しつつ、きちんと(強引ではありますが)作品内での理屈、理論をこじつけてしまった。どういうことだ。びっくりだ。
コスモクリーn……じゃなくて、コスモリバースシステムについても、ヤマトがイスカンダルまで来なければならなかった、そのことにきっちりと理由づけをしてくれましたし。さらにさらに、古代守が救助されていたことに、重要性が加味される、というおまけつき。
……どうでもいいけど「古代守は二度死ぬ」とか思いました見ていて。もとい、作品内の精神存在的には四度は死んでるよな……うん。最初のゆきかぜ撃沈。冥王星での墓標。イスカンダルでの肉体の死。そしてコスモリバースシステムを沖田に譲り渡し、記憶という名の魂すらも消滅。
どんだけ不幸なの。どんだけ殺されるのお兄ちゃん。不憫すぎるだろういくらスターシャとの蜜月期間があったとは言っても!
最後の最後に来て、お兄ちゃん属性だいばくはつで、たいへん切なくもときめくも泣かせてくれました。
私のツボのひとつとして「自分の存在そのものの消滅をかけて何事かを為す」というのがありまして、それに兄萌え属性が加わってもはや大変なことに。
しかしやはり、最終的に沖田へと返されるヤマト。
ヤマトと一体化する沖田、ってのが、あああそこへ持っていくのか!と。
そもそも「宇宙戦艦ヤマト」という作品において、沖田十三という人物は、ヤマトを(作品のありかた、戦艦のありかた、もろもろすべて)体現する存在であったわけですが。それを、こんな形で昇華してしまった。
その発想はなかった(良い意味で)。脱帽ものです。
つっこみどころと感動と感心と、いろいろと混ざり合って、なんかまともな感想にはならないんですが。
やっぱりどうも一番に感じるのは、もっともっと長い間、旅していたかった。そのこと。
長いようで短いあいだ。電車を乗り継いで通った七回の上映。もっともっと。通いたかった。いや面倒くさかったけどさ!
楽しい旅でした。
ありがとう。本当にありがとう。
小さい頃、大好きだったヤマトへ。
ヤマトが大好きだった小さい頃の自分へ。
極上のプレゼントでした。